SG のプレビュー

警告: あなたはこのページの古い版を編集しています。もしこの文章を保存すると、この版以降に追加された全ての変更が無効になってしまいます。


以下のプレビューを確認して、よければページ下部のボタンで更新してください。

SGとは、v02に於いてCT1225(AT3281)~AAT5453まで存在していた島である。正式名称はフェリフ・エスジー・タラレント島。略称としてエスジーもしくはSGが用いられる。

(2011年5月18日に発見され、2012年5月18日に放棄された。C/B/A/AA海域に存在していた。)


SGの歴史/SGの海軍/SGの国防



0.概要


エスジーはシグマ・Σ・メレトス、タウ・T・フリューによって発見された小島である。
発見以前はエスジー文明とよばれる比較的先進的な文明王朝が繁栄していたが、外部からの侵入によって王朝は崩壊した。
発見以後シグマ・タウによって建国された共和エスジーは直ぐに分裂し、原住民らによって建国された北共和エスジーと移住民らによって建国された南エスジー帝国の間で内戦が勃発した。
この戦争に勝利した南エスジー帝国は原住民らのホロコーストを敢行し、エスジー文明の遺構を破壊しつくした。
南エスジー帝国(タウ帝国)の皇帝に即位したタウとその息子タウ2世は軍事帝国化を推し進めるも、騎士オナーウ・U・アウイバウによって滅ぼされる。 オナーウ、カーキ、グーファ、オウグテッド・マルクシスの四皇帝が統治したエスジー第一帝国は740Tも存続し(その後の二分統治も含めれば1012T)、エスジー史上最も長く存続した国家である。
これら四皇帝の時代には10の対外戦争を経験した。グーファの時代、ゼブガド戦争(BT4155~4203)直後のBT4205頃には帝国全盛期を迎えた。
この四皇帝の時代が終わると、エスジー第二帝国が勃興したが、第二帝国は169Tで滅亡し、暗黒時代に突入する。 その後フベレフ1世による再統一によって300T以上に及んだ暗黒時代は終わりを告げ、フベレフ朝エスジーが成立した。しかし、フベレフ2世の時代にフベレフ朝はヴァン人の侵入によって滅ぼされ、エスジー島は無人島と化した。
その後、エスジーから脱出した者たちによって**に後フベレフ朝が建国された。

1.発見前のエスジー


シグマ、タウによってエスジーが発見される以前、この土地には2つの文明が存在していた。

1-1.エスジーの黎明


エスジー島に人間は移住してきたのは、紀元前AT3000頃と考えられている。海洋民が漂着し、住み着いたのが始まりだと考えられている。
エスジー島は比較的温暖であったが、国土は荒地と平地が大半を占めていた。そのために、原住民は主に海産物に頼って生活を行っていた。

1-2.フェリフ初期文明


エスジー島で一番最初に成立したのがフェリフ文明である。
紀元前AT2500頃からエスジー島南部フェリフ地域で栄え、土器と石器が登場し、海産物を調理・貯蓄する技術が発展した。
フェリフ文明の手掛かりが残る唯一の遺跡であるメッチェ遺跡からは海産物の保存のために建造された巨大な水冷室や塩田の遺構が発見された。

1-3.ニ大文明


紀元前AT2000頃に北部エストラントで文明が登場した。初の文字であるエストラ文字は科学の発展に大きな功績をした。科学の力を用いたマルティン船とよばれる木造の大型船を建造し、大規模漁業を一般的にした。

紀元前AT500頃に、フェリフ文明が災害と飢饉によって衰退すると、エストラ文明の影響を強く受けたジーテ文明が勃興した。
ジーテ文明は初の宗教であるイヘスヤ教を作りだした。イヘスヤ教は教典『イヘスヤ・ヴィヤ』を基礎とし、大地の神グロウを唯一神として神権政治を行った。
原始イヘスヤ教の大神殿であるルル神殿を建設し、人々の求心力を高めたが、AT700頃にルル神殿が大地震によって崩壊すると、ジーテ文明は急速に弱体化し、エストラ文明に吸収された。

1-4.オイハ・ヌクアとイヘスヤ文化


ルル神殿遺跡から発見された『オイハ・ヌクア』はエストラ文明とジーテ文明の始まりから終わりまでをエストラ文字で記述した歴史書で、ルル神殿崩壊直前まで書かれていたとみられることから未完だと考えられている。
この書物によって、エストラ文明とジーテ文明の生活・文化が判明した。特に、イヘスヤ教についての記述が非常に豊富で、先時代の文化を知る大きな手掛かりとなった。

1-5.エスジー文明


T800頃から発展したエスジー文明ではエストラ文明の文学・芸術・学問とジーテ文明のイヘスヤ教を中心とした生活スタイルが融合したものであった。
エスジー文明は非常に栄えた文明でメレストロ・アウス神殿をはじめとする多くの建築物・書物・芸術品が残されていたが、タウ帝によってそれらの遺物は尽く破壊され、現在まで残るものはほとんどない。

2.シグマ、タウによる島の発見と開発


エスジーはA海域におけるT3281(以後AT~)、C海域におけるT1225(以後CT~)、現実世界における5月18日(以後RT~)に発見された。

2-1.13世紀の支中海世界


エスジーが発見された、CT13世紀/AT33世紀では、江洲海の多くの列強が勢力拡大にあえぎ、支中海に新天地を求めて優秀な人材を引き連れて支中海の島を開拓し始めていた。
そんな中で支中海世界では元江洲海民族による同盟を組織する動きがあった。それでも支中海で大きな勢力を守っていたのが同盟『Ω花守』であった。
『Ω花守』は自設自壊戦争(1112~1160)で支中海の脅威を取り除いた二同盟を元に結成されたもので、支中海世界の安定に力を注ぎ、超平和の一世紀(パクス=ハナモリカ)を作りだした。

2-2.ジェースルク条約と支中海開拓


江洲海の最南端に位置するベネツアーロ連邦は江洲海において早い段階での産業革命を達成し、工業立国として莫大な利益を挙げていた。一方でベネツアーロ連邦に隣接するヘレンド帝国は軍事国家であったが、産業革命が遅れていた。ベネツアーロ連邦は資源確保と市場開拓のために支中海への進出をもくろみ、ヘレンド帝国は支中海での利権確保の足がかりを求めていた。
こうした二国の思惑が一致し、CT1220に支中海共同開拓を約束したジェースルク条約を締結した。

そして、第一次支中海開拓隊の指揮官にベネツアーロ科学者シグマ・Σ・メレトスとヘレンド軍人タウ・Τ・フリューの二人が選ばれた。

2-3.島の発見


CT1225、シグマとタウの一行は支中海に浮かぶ小島を発見する。この島こそがエスジー島であった。
シグマ・タウは原住民と接触を図り、エスジー島が未開の地であることを知ると、エスジー島への上陸を敢行した。

2-4.植民地化政策の失敗


シグマとタウは島発見時、原住民らを労働力としたプランテーション経営を計画したが、原住民の数の少なさと、島の小ささからプランテーション経営を断念せざるを得なくなった。
そこで、シグマはこの島に植民を実行して、島全体を工業化して利益を上げようと考えた。ベネツアーロ国は既に産業革命に成功しており、植民地における工業化を迅速に進められると考えたからである。
一方でタウは原住民を排除し、この島を軍事拠点化することで支中海進出をさらに推し進めようと考えた。ヘレンド国は支中海貿易を独占したいという思惑があった。

こうした二人の意見の相違によって、植民地政策は上手くいかず、原住民らの結束を強めることとなってしまった。

2-5.エスジー文明の破壊


シグマとタウはどちらの考え方にせよ、植民が必要であるという認識は共通であったので、手始めにベネツアーロから1300人の植民を行った。また、これらの植民を実行するために、原住民らの生活エリアを奪って開拓を行い、原住民を森の奥へ追いやった。
さらに、ベネツアーロ人はエスジー文明の建物を破壊して住居などを建築したために、メレストロ・アウス神殿をはじめとするエスジー文明の遺産は破壊された。

2-6.国家の形成


島の発見から7Tが経過したころから、エスジー島内での国家形成の動きが出始める。
原住民はそれまで、サークルとよばれる集落を形成し、それぞれが独立していたが、シグマらの植民地化政策に対して結束して抵抗し、自らの権利を守ろうとした。
セネリをはじめとする過激派サークルはレバルト・ベーテス・ジュークの元でまとめられ、移住民に対するゲリラ攻撃を実行する(セネリ戦争)。
一方で、移住民に対して武力では敵わないと考えていたアベネなどの穏健派サークルは移住民との共存を模索していく。代表者として選出されたジョン・バラウは、シグマに共和制国家の樹立を打診する。
島工業化のためにはまず島内を統一する必要があると感じたシグマは、この打診を受け入れ、CT1234にアベネを首都とする共和エスジーを建国した。

タウは原住民を排除しての軍事拠点化を進めようとしたが、ヘレンド本国が隣国との間に起こしたアリー戦争*1に突入し十分な支援が受けられなくなったことセネリ戦争で劣勢に立ち、セネリ戦争を終結させるために共和エスジーを認めた。
過激派サークルもセネリ戦争で疲弊し、穏健派サークルに吸収されたことで、エスジー島は共和エスジーの元で統一された。

2-7.ニ対政治とネステスの乱


共和制確立のためにエスジー総会が設置された。
エスジー総会は原住民と移住民が半数ずつ出席し、エスジー島の開発について話し合うためのもので、政治に関してはまだ整備されていなかった。
しかし、原住民の中で特に大きな影響力を持っていたアベネの長であるマルサ・オウバとエスジー移住民代表であるタウによる開発に関する意見の相違などが度々起こった(二対政治)。

オウバはシグマの意見を色濃く反映した工業立国を目指したが、タウは軍事国家を目指したために、開発は遅々として進まなかった。

アリー戦争が終結すると、CT1236にタウは島南部ネステスで反乱を起こし、タウ帝国を建国した(ネステスの乱)。

3.国家の確立


3-1.エスジー南北戦争


共和制という形で一時はエスジー統一がなされたものの、ニ対政治によってエスジー総会は崩壊し、CT1236には共和制である共和エスジーと帝制であるタウ帝国に分裂してしまった。
両国間での抗争(南北戦争)は長く続くも、ヘレンドの支援を受けていたタウ帝国が、CT1254に共和エスジーの首都アベネを陥落させ、翌年にはノートルマンの陸戦でタウ帝国が共和エスジーを滅ぼした。

3-2.タウ帝国の成立



南北戦争に勝利したタウはマルサ・オウバを捕えて、見せしめのために公開処刑した。(タウ独裁政権
共和エスジー側であったシグマはベネツアーロに逃亡し、ジェースルク条約の破棄を訴えるが、ベネツアーロ王はアリー戦争で勝利し領土を拡大したヘレンドの圧力を受けて、タウ帝国を認めた。

これによってタウ帝国がエスジー島の唯一の国家として内外ともに認められた。

3-3.タウの諸改革


タウは軍事拠点化を推し進めるために、島の埋め立てや海軍の増強を推し進めた。(タウの国土改革

エスジー産業革命


帝国の存続と軍事力の増強を図るためには、莫大な資金が必要であった。ヘレンドからの支援だけでは支中海全域を支配するほどの軍事力は持つことはできなかった。
タウは、島の資源を利用した工業製品の生産で外貨を獲得する必要が考え、産業革命を進めた。
結果、エスジー産業革命によって、島周辺で産出される資源を利用した工業化を実現し、莫大な利益を得た。

始めはヘレンドの植民地としてエスジー島を統治することを考えていたタウであったが、改革が成功し富を得ると、ヘレンドから独立して支中海を支配するという野望を持つようになった。

海軍の設置


タウは自らの野望を実現するために、CT1261に最初の国営軍港を建設し、CT1266に完成させた。
海軍にかかる莫大な軍事費は産業革命によって得た利益で賄われた。
しかし、初期海軍の主な仕事は国土整備の物資運搬であり、軍隊として整備されるようになるのはCT1450頃からであった。

軍事拠点化改革


CT1280頃から、バァフイワ・ハガンジェジュ・ビオポーアそれぞれに軍港を建設し、その周辺地区を埋め立てによって形成した。これらの地区は明確に区画分けされ、軍事拠点としての防衛力を強化した。
CT1431までにジャガエル・ビチアナ・ポイタバイジャフイ・ピアウーバ・イウオーインにも軍港を建設し、七地区・八軍港を整備した。


3-4.エスジー統制本部


タウは各改革に着手すると同時に、中央集権を作り上げるための集権機関としてエスジー統制本部を設置した。
統制本部の中に、開発局・海軍局・人民局の三局を設置し、それぞれが国土開発、海軍、人民統制の業務を担った。人民局では住民戸籍の作成を行い、国家体制を整えていった。

3-5.海軍の整備


軍事拠点化改革によって、基本的な防衛網が構築され、海軍保有の地盤が固まると、タウはヘレンドからU-1戦闘機を輸入した。
タウは国産戦闘機を開発する施設を巨額の資金をかけて建設したが、技術者の不足により開発は難航した。そのため、タウはヘレンドから多くの技術者を連れてきた。その結果、CT1348にはU-8試作航空機が飛行に初成功し、CT1350には初の官製戦闘機であるU-22戦闘機が開発された。
しかし、タウは連れてきた技術者を優遇したため、それまでいた技術者の間で大きな軋轢が生じ、それまでいた技術者たちは海軍局を辞めて、初の民間企業ワット社を設立した。

ワット社は当初航空機製造には関与せず、他の工業製品の製造を行っていたが、海軍からの要請を受けて航空機製造を始め、CT1358に対艦攻撃機WAT-10Bを開発した。

これらの航空機はCT1410頃から実戦配備されるようになったが、制海権の掌握をするにはいささか不十分であった。そのため、タウは早急な水上戦闘艦の自力開発を指示し、海軍局は軽駆逐艦Uroの開発を進めた。そして、ついに一番艦「コスモス」がCT1468に竣工した。

3-6.タウ2世統治下の帝国


CT1455、タウが事故で急逝すると、タウの息子であるタウ2世が帝王となった。
タウ2世はタウとヘレンド人の妻との間で誕生した子であったが、皇帝としてはいささか若すぎたため、業務はエスジー統制本部長であったマカルスが行っていた。
その中で、上級武士オナーウ・U・アウイバウはタウ2世に近づき、政権を乗っ取ろうと画策した。

3-7.オナーウの策略


まずオナーウはマカルスを失脚させるためにCT1459に国内反乱をわざと引き起こした。(プレヴェの反乱)
この反乱でエスジー統制本部が放火され、マカルスは島外逃亡を図った。オナーウはそこを狙ってマカルスを捕え、さらに反乱を鎮圧させた。
これによって、マカルスは失脚し、オナーウは英雄として讃えられた。

オナーウは思惑通り、マカルスを国外追放し、さらにマカルスの役職の奪取に成功した。
こうして地位を得たオナーウはタウ2世に対し、軍事力の拡大と海外侵略を進言した。
さらに、CT1468に海軍を帝国維持軍と中央軍の二つに分解し、帝国維持軍を自らの私有軍とした。

3-8.イエヌバクィの反乱


オナーウによる帝国転覆計画が着々と進む中、CT1771に海軍局局長イエヌバクィによる反乱がおこる。
イエヌバクィは帝国を自分のものにしようと企むオナーウを危険視し、帝国維持軍の解体とオナーウの追放を訴えた。
イエヌバクィは250人に及ぶ同志を引き連れて、完成したばかりの駆逐艦「コスモス」を占拠し、オナーウ邸に向けて砲撃を行う。
この砲撃によって、オナーウ邸は全壊・全焼の被害を受けたが、「コスモス」は帝国維持軍(500人程度)によって舵を破壊され、イエヌバクィは捕えられた。

この反乱を受けて、オナーウはもはやタウ帝国を維持するのは難しいと考え、タウ2世を監禁し、新帝国を建国することにした。

4.エスジー第一帝国時代


オナーウはCT1472にエスジー第一帝国を建国した。
軍部を統制本部から切り離し、皇帝親衛隊と帝国海軍の二つに分離させた。

4-1.旧新革命とその影響


CT1485頃になると、帝国の総人口は100万人を超えた。オナーウはタウ帝国の再復活を予防し、帝政を強固なものとするために皇帝親衛隊の設置を行うと共に、タウ帝国時代の要人(旧制派)の排除を行った。
タウ2世の幽閉に対して反対の姿勢を示していた旧マカルス一派の38人に対しては最低禁固10年の処罰を下し、元人民局局長ら12人が処刑された。

こうしたタウ2世の幽閉と成り上がりに過ぎないオナーウ政権に対しての大きな反乱が各地で発生するも、オナーウは皇帝親衛隊の力でこれを鎮圧し、強い圧政を敷いた。

そして新制派として統制本部長にホーター・J・コニアクアが就任した。
ホーターはオナーウのかねてよりの部下として働いており、オナーウが絶対の信用を寄せる人物であった。

4-2.ヴィシュルの乱


旧新革命から間もないCT1488に、反帝国主義者による反乱が起こる。
タウ帝国・オナーウ王政どちらにも反対し、共和制成立を目指す彼らはシグマ・Σ・メレトスの息子のヴィシュル・Σ・メレトスをベネツアーロから招き、起こした反乱である。
彼らはこの反乱でオナーウの失脚を狙い、ヴィシュルを大統領とした共和制国家の成立を目指した。まず、オナーウの悪行や企みを書き記したビラ「真実の鏡」30000枚を帝国内にまき散らして、帝国を一時混乱に陥しいれた。
さらにベネツアーロから密輸入した武器で武装した反乱軍はフォバから首都エストラントに向けて進軍した。

皇帝親衛隊と帝国海軍が鎮圧に向かい、ビラを速やかに回収し、反乱軍とセノキポーリで衝突した。
セノキポーリの戦いで反乱軍は親衛隊を打ち破るも、ピアウーパで帝国海軍に敗北し、鎮圧された。

ヴィシュルはビチアナ湾脱出に失敗し、処刑された。これによって、国内の反乱分子はほとんどが駆逐され、第一帝国は安定した。

4-3.ヴィシュール文化


タウ帝国からエスジー第一帝国への変換期にはヴィシュール文化が興隆した。
イエヌバクィの反乱、旧新革命、ヴィシュルの乱の3つの大きな出来事はヴィシュール文化に大きな影響を与えている。
ヴィシュール文化は、これらの戦争に対する反発が強く浮き出たものが多く、書物では『崩壊神話』(ケラプス)や、『真実の鏡』(マケルドス)が有名である。
また、美術では『革命』(アルケラウド)、音楽では『コスモスの反戦歌』(ヴァートラッハ)などがある。

4-4.ペテン戦争


CT1540、エスジー第一帝国の圧政の中、支中海に浮かぶ小国ヘデクパウダーが宣戦布告を行ってきた。ヘデクパウダーは支中海での発展を目指してエスジー島の攻略を考えていた。第一帝国にとっては初の対外戦争となった。オナーウは帝国海軍総指令ジャカリ・β・カルベに徹底抗戦を命令した。圧倒的な軍事力の差があった中でジャガリは奮闘し、独立を守った。

参考:ペテン戦争(CT1547~1629)

4-5.ヴィシュールの大成と衰退


強大な三国との戦争で人口が半減したものの、戦争による技術力の底上げは、第一帝国の工業力と軍事力を強くした。
オナーウは戦時中に建造された駆逐艦「カトレア」「ダリア」「フォルト」「デフォルト」の四隻に加えて、潜水艦二隻と戦艦二隻の建造を計画した。
そんな中でヴィシュール文化はさらに進化し、アルゲメロス『英雄伝』*2によってヴィシュール文化は大成した。
その後も優秀な作品が生まれ、特にドンツェピキー『闇と雲』*3はヴィシュール文化最高傑作の小説とされている。
しかし、ドンツェピキー以後、ヴィシュール文化は衰退の一途をたどっていく。

4-6.新皇帝カーキの統治


オナーウの圧政は国を発展させることに成功したが、生活レベルの上昇から、不満を持つものが多く現れてきた。それはエスジー統制本部内でも例外ではなかった。エスジー統制本部局員アリス・バトソンは、オナーウに対して言論で反発を試みた。それまでは暴力でしか訴えてこなかった反オナーウ勢力とは違い、言論で堂々と戦おうとしたのであった。
しかし、オナーウはバトソンを捕縛して公開処刑とし、それと同時に皇帝を自らの息子に譲って帝国の存続と世襲をアピールした。

CT1677、オナーウの息子カーキ・L・ウソメントは自ら邪王と名乗り、皇帝位を引き継いだ。実権は依然としてオナーウやホーターらが保持していたが、カーキは戦争による帝国の拡大を目指した。

4-7.アルホグットの内政改革


ホーターに代わりエスジー統制本部統括長となったアルホグット・ゲットンは、エスジー統制本部を廃止し、新たにエスジー帝国政府を作り、内政改革に着手した。アルホグットは大帝国への成長を見据えて、統制本部を帝国政府と皇帝局にわけ、政府にある程度の独立性を持たせた。

4-8.17世紀の支中海世界


CT13世紀以降、江洲海からの技術的に先行する移民族たちが支中海で大きな権力を握るようになり、その地盤は強固なものとなっていた。彼らは同盟を結成して、互いの結束力を強めた。同盟『£箱研』はその代表格として、支中海を取り巻く同盟の中でも最大規模であった。『£箱研』を中心として、『ЭMoon Drop』・『†EDF連合』・『Д僕たち高専生!』が海域を掌握し、単独の軍事行動を著しく難しくさせる状況を築きあげた。

4-9.Union級潜水艦の建造


CT1800、海軍局はオナーウの指示通り、Union級潜水艦2隻の建造を開始した。維持費が低めながら、強力な対艦装備を持つことが出来る潜水艦は近海の制海権掌握の要として重要視されており、「アクエリアス」「オーツー」の二隻が建造された。

4-10.アスジー戦争


「アクエリアス」「オーツー」が竣工し、さらに戦闘機U-AXLや攻撃機POGI-23.4の配備が完了したのを見計らい、CT1848にカーキはアスキーアートに侵攻を開始した。
強力な航空機でアスキーアートを爆撃して進撃を続けたが、ノースポイントによる介入によって戦局は悪化した。しかし、紅の大移動*4によって中断された。

参考:アスジー戦争(CT1848~1860)

4-11.紅の大移動


紅の大移動によって、琵威大海*5へ移動した。

5.琵威大海の波乱


琵威大海を支配下に入れたい第一帝国は早い段階から軍事力を使い、琵威大海での覇権を争った。数多の戦争に勝利を重ね、第一帝国の全盛時代が築かれた。

5-1.生存戦略同盟


BT*63917に帝国は生存戦略同盟を設立した。この同盟は琵威大海の支配権拡大を狙ったものであった。屋久島、硫黄島が参加し、琵威大海で二番目*7の同盟となった。ノースポイントが結成した『青天の霹靂』が首位勢力であったが、スタンスは真逆であった。そののち、BT3947にはイージス島も参加した。

5-2.エスジー漁船団と貿易公社


CT1815(BT3871)に設立されたエスジー貿易公社とCT1834(BT3890)に設立されたエスジー漁船団は琵威大海での積極的な海外交易を行い、その規模を大きく拡大させた。
工業化で他の島よりも優位に立っていたために、輸出産業は大きく発展し、経済状況は非常に良くなったが、一方では各所での摩擦を生むことになった。(エスジー貿易摩擦)

5-3.マロン危機


BT3952、生存戦略同盟参加国である硫黄島に対して、当時ヘデクパウダーとの戦争に勝利し、国力を高めていたマロンが宣戦布告を行った。
すぐさま生存戦略同盟緊急会議がエストラントで開催され、BT3954に参加国他3島がマロンへ宣戦布告を行った。(エストラント会議
その後、マロンが同盟『Tief Blau』に加盟した事で同盟戦争への発展が危惧されたが、まだその時期に達していないと判断して平和的解決を目指した。
結果、BT3969に硫黄島、BT3970にイージス島とエスジー第一帝国が、BT3971に屋久島がマロンと停戦し、危機は去った。

5-4.ソニックによる海軍再編


帝国はペテン戦争以降、国力に見合った軍備を行うべしとして軍備拡大を推し進めていたが、琵威大海での急速な貿易拡大が大量の外貨を流入させ、インフレーションを引き起こした事で、維持費が拡大した。
金本位制・固定税制を取っていた第一帝国にとっては維持費の拡大は財政を圧迫し、維持費のみで国家予算の130%になってしまう事態に陥った。これに対処すべく、帝国海軍維持改善部が設置され、部長にK・ソニックが任命された。

ソニックは十五の軍港のうち四つを民間に払い下げし、さらに駆逐艦「フォルト」と潜水艦「オーツー」を破棄し、さらに誘致活動・採掘基地建設などによって収入を拡大させることでこれを達成しようとした。しかし、渇翔島からの攻撃によって、軍縮は実行できずに終わった。

5-5.不在の乱


ソニックによる海軍再編が計画されていたころ、カーキは琵威大海の情勢を把握する外遊に出発したが、その直後のBT3977に渇翔島から宣戦布告を受けた。
貿易摩擦問題を発端として勃発した戦争だったが、直後に同色同盟の乱(BT4011~4175)が勃発し、休戦状態になった。

参考:不在の乱(BT3983~4180)

5-6.第3皇帝グーファの戴冠


BT4006、不在の乱(BT3983~4180)が続くなか、カーキは自分の子グーファに皇帝の座を譲る。大規模な海外出兵のために国内反乱に対して対抗する武力を国内に残しておらず、圧政に対して強い不満を抱いている国民の反乱を危惧し、グーファを皇帝位に就かせて圧政を解除することで国民を懐柔しようとした。

5-7.41世紀の琵威大海


BT4001から始まる41世紀の琵威大海は三つの大同盟『青天の霹靂』『Tief Blau』『生存戦略同盟』の思惑が交錯していた。
首位同盟『青天の霹靂』・二位同盟『Tief Blau』は意味深なメッセージを海域全体へ発信し、三位同盟『生存戦略同盟』は各地での衝突が見られた。
また、この三同盟の間でもしばしば衝突が見られ、情勢は極めて不安定であった。

5-8.同色同盟の乱


帝国が不在の乱(BT3983~4180)で渇翔島との戦争を行っていた際、同盟『Tief Blau』のeden*およびマロンが渇翔島へ宣戦布告を行う。この突然の宣戦布告にグーファは激怒し、「愚の介入だ」と、一時は同盟戦争もやむ無しとの考えを示したが、戦場は渇翔島に留まり、二同盟の勢力争いが展開されて同盟『Tief Blau』が勝利を収めた。

参考:同色同盟の乱(BT4011~4175)

5-9.第2次ペテン戦争


不在の乱(BT3983~4180)が休戦状態になると、BT4023に復讐戦としてヘデクパウダーに宣戦布告を行う。
序盤は帝国の圧倒的優位に進んでいたが、途中からは同盟『青天の霹靂』との交戦が発生した。同色同盟の乱(BT4011~4175)に続いて、再び同盟戦争が危惧された。特に、同盟『青天の霹靂』盟主国のノースポイントはラウンドハンマー作戦*8を発表し、帝国・同盟『生存戦略同盟』に対して明確な対立姿勢を示した。

参考:第2次ペテン戦争(BT4029~4200)

5-10.トーマス軍拡と国内情勢


第2次ペテン戦争(BT4029~4200)によって大量の移民を獲得した帝国ではインフレーションが収まり、軍拡への余裕が出てきた。軽空母「スカイフォール」艦長兼海軍作戦部長のトーマス・G・マロスは新型駆逐艦二隻、軽空母二隻、巨大戦艦一隻の建造による軍拡を計画した。

度重なる戦争による多額の軍事費に加え、トーマスによる軍拡計画は財政を圧迫した。さらに、怪獣の連続上陸や海底資源の枯渇が相次いだことで国内経済は悪化した。
こうしたなかで、グーファは戦争での軍需を用いて経済の復調を目指すことにした。

5-11.ゼブガド戦争


第2次ペテン戦争(BT4029~4200)がヘデクパウダー壊滅によって一旦の終結を迎えると、巨大戦艦二隻を喪失し戦力が大幅に落ち込んでいた第七艦隊駐屯地に宣戦布告を行った。
緒戦から強気に出た帝国はこの戦争に勝利し、同盟『Tief Blau』との対立はますます深まった。

参考:ゼブガド戦争(BT4155~4203)

5-12.対外戦略での失敗


グーファは海域での軍事・経済的優勢状況を守るべく、ゼブガド戦争(BT4155~4203)を行い、これを成功のうちに治めるも、失敗点も多く見られた。
また、一方で対外諸国による圧力も次第と高まり始め、帝国の行った妨害工作は尽く失敗に終わった。こうした失策は敵対勢力の拡大を許すこととなった。

5-13.貴族の台頭


帝国は国内財政の悪化と戦争の激化により増大した軍事費を国庫から賄うことが出来なかった。工業で莫大な利益を保有していた貴族は多額の資金を国に貸し、賠償金でのハイリターンを見込んでいた。しかし賠償金は借金を賄うに及ばず、貴族は返済を延期するかわりに参政権を要求した。
特に三大貴族シン家ハエアー家ポウグランド家は貴族院の設立を求めた(貴族政論争)。結果的にはそれは叶わなかったものの、政府機関、皇帝局などの重役に貴族が着任するようになった。
貴族は賠償金を取れず、対外戦略でも失策したグーファを評価せず、『皇帝降ろし』を画策した。

5-14.グーファ失脚と武士貴族


貴族があらゆる政治要職を握るようになると、グーファは皇帝として独裁政治を行いにくくなっていった。こうした状況を危惧し、BT4191には貴族の武力的排除を試みるも(皇帝貴族戦争)、海軍・皇帝親衛隊すらも貴族に権力を握られていたために失敗した。すぐさまグーファは皇帝位を降ろされ、甥にあたるオウグテッド・マルクシスが皇帝位を引き継いだ。

貴族出身の父を持つオウグテッドは貴族のいいなりであった。それゆえ、貴族の要求はますます強くなり、ついには武装するようにもなった。彼らは武士貴族として絶対的な力を持つようになった。

6.輝けるエスジー大帝国


BT4200、帝国は人口300万を突破し、海域首位に復活した。生存戦略同盟も海域2位*9となり、琵威大海での存在感が増大した。一方で活発に活動を行う軍事同盟は琵威大海の諸外国からは邪魔な存在となっていた。

6-1.帝国の栄光


帝国はゼブガド戦争(BT4155~4203)で得た大量の移民のおかげで、海域首位の人口を保持するようになった。国内の農工場比率問題や軍備不足問題、同盟内問題などの多くの問題が武士貴族ら、特にシン家によって解決されていった。こうした立て直しが図られていった一方で、私利私欲を肥やす者たちも出現することとなった。

6-2.アルペル・ゲンザー


ゼブガド戦争(BT4155~4203)に勝利し、国家繁栄が国民にも実感できるようになってきた頃、国内では経済状況の回復など、見通しは明るくなっていた。そうした中で、ヴィシュール文化の衰退などにとって代わって中心文化として芽生えたのが、アルペル・ゲンザーである。
アルペル・ゲンザーは帝国主義の確立に伴い、ヴィシュール文化よりも帝国主義に対して前向きな姿勢を示した文化であった。貿易によって入ってきた様々な食べ物や衣服、生活用品などは安く手に入るようになり、流行となったほか、『アルオエル』(ケジャムラ)・『不在の乱史』(フーリュー)などの文学作品が生まれた。こうした海外からの影響を大きく受けたアルペル・ゲンザーは帝国の繁栄とともにさらに成長を遂げた。

6-3.突風紛争


ゼブガド戦争(BT4155~4203)終結直後、首位同盟『Й疾風』を牽制するため、axzzに対して宣戦布告を行った。当初圧倒的な戦力差で攻め込もうと画策するも、axzzによる破壊工作の前に敗北した。

参考:突風紛争(BT4209~4213)

6-4.王冠聖戦


突風紛争(BT4209~4213)終了直後、海域首位の座*10を奪還すべく、軍艦島に対して宣戦布告を行う。しかし、軍艦島は生存戦略包囲網連合を形成し、海域全体を巻き込んだ大戦争に発展した。
生存戦略同盟連合は三倍の敵を相手にしながらも善戦し、BT4264には勝利宣言を発表した。

参考:王冠聖戦(BT4223~4264)

6-5.シン・グループの帝国買収


王冠聖戦(BT4223~4264)終結時までに災害や空襲の影響で人口は240万まで低下した。さらに、多額の軍事費は財政状況をさらに悪化させた。
三大貴族の一角であるシン家のシン・シアートは国土の3分の1をシン家に割譲するかわりに、負債を肩代わりすることを提案した。オウグテッドはこれを受け入れ、エシンバラを中心都市とするシン自治区が成立した。

シン自治区ではシン・グループの関連企業が終結して、巨大な工業地区を形成するなど、大規模な再開発が行われた。

6-6.木枯らしの大移動


木枯らしの大移動*11によって、英平洋*12へ移動した。

7.武士貴族の台頭と第一帝国の滅亡


7-1.国土再復興計画


T4280に王冠聖戦(BT4223~4264)の反省から防衛力強化を目指した国土再復興計画が発表された。
国土再復興計画は、大きな被害を受けたフロンティア地区を切り崩し、エストラ・アーリラント地区の間に新たな地区を建設する『第二次国土改造計画』と軍港の位置の大幅変更と防衛施設の増設、また巨大戦艦の可及的速やかな建造を約束した『第七次中長期防衛計画』が基礎となった大規模な改革であった。

7-2.峻の谷戦争


王冠聖戦(BT4223~4264)の再燃を懸念し、敵勢力の殲滅を図るために計画したイムレスク計画に基づき、AT4342に南鳥島に宣戦布告を行った。
戦況は帝国の優勢のまま、停戦条約締結(タキ合意)に至るが、条約は一方的に放棄されてしまった。

参考:峻の谷戦争(AT4342~4431)

7-3.バトルフィールドへの進出


帝国は峻の谷戦争(AT4342~4431)の傍ら、海外拠点獲得のため、公海でありながら列強国が拠点を建設している海域(バトルフィールド)への進出をもくろんだ。
けれども、作戦は太陽の島の妨害に遭い失敗に終わった。

参考:キューズ作戦(AT4375~4521)

7-4.サーム教の成長


帝国は対外進出と国内改革を同時に実施していたため、国民には大きな負担を強いていた。そんな状況でサーム教という新興宗教が新世界の発見を説き、信者を増やしていた。教祖はウイローアと称す男であるが、本名は明らかではない。サーム教は貴族らと密接に結びつき、国政への参加意欲を強くしていった。

7-5.共有主義闘争


AT4244、人類統合組織ソビエトから送り込まれた指導者が"共有主義"を国内に広めようとする事件(ソビエト事件)が発生する。これを政府は厳しく取り締まった。それを原因として人類統合組織ソビエトとの戦争が勃発した。
ソビエトの保有する戦艦3隻を主力とした艦隊はエスジーの領海を脅かし、一時は防衛戦を突破されるも、なんとか押し返しに成功した。

参考:共有主義闘争(AT4429~4544)

7-6.45世紀の英平洋情勢


45世紀を迎えた英平洋ではOperation.R.G.Dが依然として続き、海域の中で大きな勢力を作りつつあったのが同盟『£WARWOLF』『♪さちぃ一課』『Σミスリル 西太平洋戦隊』の古参国家グループで、このグループは強力な協力関係を築き、各国家のつながりは極めて密接なものであった。それに対抗した『〆Royal Garden』『Agreement』は壊滅し、『£WARWOLF』勢力は海域の中での立場を確固たるものとした。その一方で、同盟『★シ―ライオンズクラブ』と『ШInvincible Armada』は比較的新しい同盟であったものの、列強を集めた。特に軍事同盟である『ШInvincible Armada』は脅威となっていた。
琵威大海では首位争いを繰り広げた『Θ生存戦略同盟』は参加国の減少によって存続すら危うい状況にあった。

7-7.帝政の崩壊


突風紛争(BT4209~4213)以降の四つの戦争と一つの軍事作戦の失敗によって、帝国は経済的・軍事的に困窮が続いた。こうしたなかで皇帝の求心力は低下し、武士貴族は政権の奪取をも考え始めた。
AT4470になると、武士貴族は武士貴族院の開設、政府出納省長官の武士貴族院の選出権、海軍皇帝親衛隊の廃止、武士貴族院の皇帝に対する拒否権、エスジー貿易公社の解体を盛り込んだ二四カ条要求をオウグテッドに承認させた。これによって皇帝は実権を喪失し、帝政は崩壊した。

7-8.ブレーン革命


二四カ条要求が承認されると、三大貴族の一角ハウアー家のブレーン・ハウアーはオウグテッドに皇帝位を降りるように迫った。オウグテッドはこれを固辞するも、ブレーンによる皇帝暗殺計画を知り、国外脱出を図った。しかし、ブレーンは帝国警団・皇帝警団を利用してオウグテッドと皇族15名を捕縛し投獄した。
武士貴族院は皇帝位の廃止を承認し、オウグテッドの処刑と皇族の身分剥奪を行った。これによってエスジー第一帝国は滅亡した。

8.エスジー第二帝国


第一帝国滅亡し、武士貴族間での抗争で勝利したシン・シアートは第二帝国を建国した。シン・シアートは体制を一新したが、第二帝国はわずか168ターンで滅びた。

8-1.クジャプレ抗争


第一帝国が滅亡すると、武士貴族院は武士貴族院での決定によって全てが決められる新たな政治体制の確立を目指した。しかし、武士貴族院の中で意思を統合することは難しく、三大貴族の一角ハウアー家のトップであるレフダ・クラ・ハウアーが暗殺される(ハウアー怪事)と、それに続く形でポウグランド家のトップであるルメプエ・ポウグランドの暗殺未遂事件が起こった。この事件によって武士貴族院内は崩壊し、クジャメ家とプレグランド家の間で本格的な抗争(クジャプレ抗争)が起こると、武士貴族同士での戦いが過激化し、内紛が至る所で発生した。

8-2.第二帝国の建国



巨大な自治区を保有していたシン家は、強力な軍隊を保有していたため、次々と他の貴族を打ち破り、ハウアー家とポウグランド家を壊滅させると、シン家に対抗する貴族は居なくなった。
AT4540にシン家の長であるシン・シアートは第二帝国の建国を宣言した。

8-3.シン・アブラジの炎


シアートは建国後、混乱が沈静し安定した頃に養子シン・アブラジに皇帝の座を譲渡した。アブラジはシアートの政策を引き継ぐとともに、"蠍の炎政策"と呼ばれる強引な改造政策を実施した。この政策の反発は大きかったが、この政策によって帝国は近代化を遂げた。

8-4.47世紀の英平洋情勢


47世紀を迎え、英平洋に於いてはOperation.R.G.Dが事実上の終結を迎えた。寒風の小移動*13によってOperation.R.G.Dの敗戦側同盟『Agreement*14』が消滅し、その後『Ж流星群』『〆Royal Garden』も消滅し、二世紀で四つの同盟が消滅した。『Θ生存戦略同盟』は大日本帝国海軍連合艦隊が加わったものの、同盟規模としては最下位であった。
さらに、英平洋のクリスタル蒐集の動きが強まり、多くのクリスタルが柊・帝政連邦ポツダム・太陽の島に集中し、神聖トロイ帝国・無限島に残るクリスタルを巡って大規模な戦争が発生するのではないかという懸念があった。

8-5.サジタリー戦役


アブラジは改革の成果を見せ、国民に正当性をアピールするために、虚空廟に宣戦布告を行った。 しかし、新たに編成されなおされた帝国海軍は力を十分発揮できず、駆逐艦「コスモス」が撃沈されるなど、劣勢に立った。虚空廟による反撃作戦が始まると、アブラジは国際法に基づいた鎖国を宣言し、戦争を中断した。

参考:サジタリー戦役(AT4689~4836)

8-6.チェルラウラ宣言


サジタリー戦役の劣勢の報を受けたアブラジは、AT4708、チェルラウラにおいて、政府幹部を集めて極秘会談を行った。財政金融経済担当ラメエク・S・ゴレルカは、これ以上の継戦は不可能として、虚空廟に対する停戦申し入れを提案した。しかし、アブラジはこの戦争を敗北とするわけにはいかないとして、国際法に基づく鎖国宣言*15を行い、AT4710には鎖国体制を完了した。

しかし、それまで工業国として海外への輸出によって利益を挙げていたため、鎖国体制は国内経済に深刻な影響をもたらした。鎖国体制により実質的な経済活動は停止した。

8-7.ハギア協定


AT4712、鎖国体制に入るにあたり、同盟関係は不要として、ハギア市において『生存戦略同盟』の解散を決定した(ハギア協定)。

9.フベレフ朝エスジー


T5013、無未不非教団の協力を受けて、ジャンジ・E・フベレフによってエスジーは再統一された。

9-1.ガイラの夜明け


T5012、第1地区ガイラにある無未不非教団本部『カルティアン』において、第7回ジューラ・フベレフ会議が行われた。
この会議には無未不非教団ほかチェルラウラ六大勢力がジャンジ・E・フベレフによるエスジー再統一を認めた。

T5013、フベレフは旧ハギア市内に於いて政権樹立宣言を行い、フベレフ朝エスジーが樹立。(ガイラの夜明け)
第1地区壊滅のため、主要施設を第2地区に移設することを発表した。また、反攻勢力はその日のうちに武力で鎮圧された。
第2地区ベハタランスはエシンバルと名前を改めて、フベレフ朝エスジーの新たな首都となった。

9-2.マーマーヘーベー海戦


T5054、万を期してフベレフ朝はSalamisに対して宣戦を布告。
この戦争は帝国の発展を掛けた大きな戦いで、莫大な資金を投入して行われた。
詳細はマーマーヘーベー海戦(AAT5060~5096)に記載されている。

9-3.死の聖戦


T5093、『死亡戦略同盟』を結成したフベレフ朝は"死の聖戦"の開始を宣言する。
T5094、ノースポイント連邦に宣戦布告を行い、それを開始した。
詳細は死の聖戦(AAT5100~)に記載されている。

9-4.国土完成


T5176、建設中だったイタビチ湾東第2防衛センターが竣工。
これによってエスジー沿岸の全軍事施設が完成し、約900ターンに及んだ国土改造計画が完了した。

その頃のフベレフ朝はマーマーヘーベー海戦(AAT5060~5096)、死の聖戦(AAT5100~)のオペレーション・カスミガセキの勝利によって、国力回復の兆しが見え始めていた。

9-5.フベレフ2世政権の誕生


T5180、フベレフはフベレフの直系長男フベレフ2世に政権を譲った。
フベレフ2世政権下では連戦によって混乱した経済の安定が図られ、平和な日々が長く続いた。

9-6.フベレフ絵画


フベレフ2世政権下では100T以上の平穏な時期があったために国民は富裕化し、文化が発展した。
特にフベレフ2世の行った文化保護策は精巧なフベレフ絵画を生みだした。
フベレフ絵画は近代的な遠近法を巧みに用いて、色を多彩に使ったものである。

9-7.ヴァン島との戦闘


T5330、フベレフ朝はヴァン島から宣戦布告を受ける。
T5336、開戦と共にヴァン島は巨大戦艦や機動艦隊を投入。フベレフ朝はこの対応に遅れ、被害を出した。

そして継戦が難しいと判断したフベレフ2世は一時離脱を行う*16

9-8.滅亡戦記(最後の戦線)


T5380、復帰したフベレフ朝は、ヴァン島に対して全力での抗戦を行う事を発表。
しかしフベレフ朝は人口400万人を超えるヴァン島に対して*17攻撃する策を建てられず、ヴァン島からの攻撃を受ける。

しばらくのエスジー近海での海戦によってエスジー海軍は崩壊し、防衛網も壊滅的被害を受けることとなった。

そしてT5430頃からヴァン島の爆撃機がエスジーに飛来し、そしてT5435頃の大空襲によって18万人以上が死亡し、国土はほぼ全面的に焦土化した。
首都であるエシンバル、政府省庁の他、民間企業も多大な被害を受け、ボウキング航空機開発・トマホーク自動車などは本社ビルが消失、廃業に追い込まれた。
ついにT5439、フベレフ朝はヴァン島に降伏。生き残った国民はわずか15万人と、戦前のわずか6%のみで、94%の国民が死亡した。
これによってフベレフ朝はもはや国を維持することもままならずに、フベレフ2世や海軍・政府幹部は暴徒化した民衆によって惨殺された。
フベレフ2世の死亡によって、フベレフ朝は消滅し、エスジーから脱出したフベレフ2世の弟のチェリラ1世はソップ島で後フベレフ朝を建国した。


10.滅亡


フベレフ朝滅亡後、エスジー外に移民する人々が急増し、そしてエスジー内に残る者達は数少なく、内乱によって島は荒廃した。
そしてT5453、国際先進国派遣団はエスジーを派遣リストから抹消し、エスジーを『放棄島』扱いし、これ以降の調査を行う事は無かった。
2172Tに及ぶエスジーの最期はあまりにも悲惨なものであった。




ここにエスジーの歴史は完結を迎えた。











  • ただの島開発をよくここまでお話にできるな...www -- ? 2011-05-24 (火) 06:03:58
  • 国旗がなんかこわいお... -- ? 2011-08-11 (木) 18:35:59
  • 紅の大移動wwいいセンスですな -- 2011-08-24 (水) 20:17:32
  • せいぞーん、せんりゃくー!! -- 2011-09-02 (金) 00:30:47
  • なんか酷いぞ -- 2011-11-13 (日) 10:42:56
  • その外交リスト、一度見せてもらいたいな -- 2011-11-13 (日) 13:31:41
  • そういえば、エスジーにはエースパイロットっているのか? -- 百里? 2011-11-26 (土) 08:50:14
  • おまえ今日もメシウマなの? -- 大平和 2012-01-08 (日) 23:05:14
  • おかえりなさい。また歴史が紡がれるのを楽しみにしています。 -- 百科ファン? 2012-03-02 (金) 20:34:31
  • 万感の思いです。 -- 2012-05-16 (水) 20:07:41
  • ちょうど1年、ご苦労様でした。そして、ありがとうございました。 -- 百科ファン? 2012-05-16 (水) 20:09:15
  • 一年記念パピコ -- ? 2012-05-16 (水) 21:34:09
  • おつ 復活を望む -- ? 2012-05-18 (金) 19:33:39
  • お疲れさまです。また復帰されるときを楽しみにしています。 -- ? 2012-05-18 (金) 22:32:14
  • 盟主殿、お疲れ様です。また会える時を心待ちにしています -- 食い倒れ? 2012-05-18 (金) 23:11:38
  • 本当にお疲れ様でした。またいつか逢いましょう、復帰されるのを待ってます。 -- 栗林? 2012-05-18 (金) 23:23:10
  • pLEjaTosqKoocL -- ucveahz? 2021-03-01 (月) 05:54:20


今日1
昨日0
総計13063



 

*1 隣国オースレギアとの戦争。この戦争に勝利したヘレンドはオースレギアの1/3を編入した。
*2 CT1650初版
*3 CT1663初版
*4 第七回移籍
*5 B海域
*6 B海域のターン、A海域のターンと同一
*7 当時同盟は4つのみであった
*8 ノースポイントによるSG第一帝国の崩壊を目論んだ作戦
*9 10同盟中。1位は『疾風』、3位は『青天の霹靂』
*10 当時は£火星に代わって折檻じゃ!が首位で、SGは2位
*11 第八回移籍
*12 A海域
*13 第8.6回移籍
*14 元ЯCelestia、∽Tief Blau
*15 この宣言を行うと、あらゆる島はその島に干渉出来ない。つまり管理人預かり
*16 管理人預かり
*17 当時のフベレフ朝の人口は250万程度