《設置趣旨》 のバックアップ(No.1)


このページはまだ試案なので、決定事項ではありません。

このゲームは戦いを演出するゲームであるとする。
テーマは、弱肉強食とその流転とし、闘争を繰り広げる事を念頭におくものとする。
このテーマは、運営側が、開催方法や設定を模索する際の参考であり、各プレイヤの判断とは関係が無い。
仮にプレイヤがこれと真っ向から反対する趣旨でプレイしても、運営は直接関知しないものとする。

解説

参考

  • 「修羅の道」~富嶽がサイトを設置した理由~
    • 修羅とは仏教の六道の一つである。日夜戦って敵を屠るが、それが永遠と続く事で苦しみを理解する世界である。
      ところで、プレイヤには、多くの学生もいる。スポンジの様に吸収力があって、すばらしい時代。
      そんな貴重な時間を奪う自分は悪い事をしている。そう考える時がある。
    • この戦争ゲームは、当人の意思に反して作品や意思を蹂躙し、利用するため人の感情をもて遊ぶ。
      つまり、自身と他者の精神が、コマンドの狭間で互いを喰い合う、そんなゲームだと思っている。
    • 喰い合う内に人間を感じる。たとえば、別の島は許されても、自分には相手がキレたり。へつらわれたり。
      好き嫌い、保身、嫉妬、苛め、強欲、面従腹背、欺瞞。これが人間味なんだと強く思う。
      己の分身が箱庭としてあり続ける以上、我々全員が、他のゲームよりドロドロする。
      スポーツマンシップだ。ゲームだから。と、ドロドロを忌諱するのはスマートだが、それだけで良いのか。
    • というのも、そういうドロドロな心は、我々全員が必ず終生持っているものだとされているのだ。
      かのダーウィンが言った事*1が正しいとするなら、我々は己のエゴを未来永劫つないでいく存在なのだ。
      仏教でも、釈迦がこれを煩悩と呼んで*2、人間が生涯切り離せないものとしている。
    • 幸福な時代に育った我々は、本当はまだ何も知らないのでは無いかと思う時がある。
      だから、ネット上で、知った気持ちになって無理をする位なら、出しきってみる事も、意外に大切かなあと思うのだ。
      なぜなら、人間は他者の気持ちになれる唯一の生物で、それが万物の霊長たる至宝であると信じている。
      しかし、その至宝とドロドロをセットで貰って生まれてきたのが、我々の業である。そう感じるからである。
    • 人の本質は、崖っぷちなほど顕在化する、と言った人がいる。
      もしそうなら、ギリギリの時の己の心のありようや業に触れてこそ、他者を真に理解するヒントが得られるかもしれない。
    • 己の、他者の、人間のそんな業を知って、自分はどこに向かうのか。人それぞれだろう。
      社会の縮図、実験場として遊ぶなら、奇麗事は言わない。リアルで出来ない事も存分にやって構わない。
      ここで、何を失敗をして、言われ、思われようと、人生は無傷。一個人の設置したネット上の場所なのだから。
    • 人生が長い線なら、ここは数百の線がたった一時集う交差点。だからこそ、自分の鬼になってみて欲しい。
      その代わり、返ってきた事、得た事は、いつかどこかで、誰かのために、役立ててみて欲しい。
      リアルの本当に大切な人をいたわってほしい。そうすれば、我々全員がさらに幸せになれる。そう強く感じる。
    • 長くなったが、闘争こそは我が人生である。とつくづく感じる今日この頃である。
      そして、まだ年若い諸君にあっても、戦って欲しい。戦い抜いて欲しい。闘争をやめないでいて欲しい。
      もちろん、人の闘争とはさまざまなものである。戦争行為だけが闘争とはいえないかもしれない。
      そして、己の闘争に疲労困憊してしまったり、あるいは何かを得たと感じたなら、その時は、休んだり卒業すればいい。
      我々の修羅の先にはきっと何かが見えるはずなのである。

関連項目

経緯

FAQ



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富嶽太郎


*1 ダーウィンの「種の起源」は後に「進化論」で遺伝子学と結びつき、やがてフォン・ノイマンらの展開した「ゲーム理論」の礎ともなる。
*2 釈迦自身は煩悩からの救済を生涯のテーマに掲げており、これが後の涅槃経へとつながる。